今年はドボルザーク(aka.ドヴォルザーク/ドヴォルジャーク)の没後100年にあたるということで、彼の作品を取り上げる演奏会などもそれなりに多く、「新世界ドボコン」などという過酷なプログラムのお手伝いもすることになっている。この機会にベーレンライター社からは「ドヴォルザーク没後100年スペシャル・エディション」と銘打った交響曲全集のスコア・セットが発売された。さすが抜け目ないね。しかし、そのスコアは今のところ分売がなく、しかもセットはビニールカバーで覆われていて中身を確かめることができない。いくら記念の年だからといって、ドボルザークのために2万円近くはたくのはかなり勇気が要るので、どんなものなのか周辺を探ってみる。

このセットの“売り”は、広告によると次のようなことらしい。

  • ドボルザークの全集版を刊行しているスプラフォン・プラハの版を基にして編集(ヤマハの『楽譜音楽書展望』)、あるいは「ドヴォルザーク・エディションとしてスプラフォン・プラハより出版されます」(アカデミア・ニュース)
  • ドボルザーク全集の歴史を綴った前書きと、ドヴォルザーク研究家ジャルミラ・ガブリエローヴァ(Jarmila Gabrielova)による解説付き

一見すると、新しいドボルザーク全集が編集されて、それがこのセットになったかのようにも思えるのだが、当のジャルミラ氏のウェブサイトを見ると、新批判校訂版(new critical edition)は、まだ始まったばかりの長期プロジェクトだということになっている。

A long-term project of the basic research in musicology producing the new critical edition of the complete works by Antonin Dvorak (1841-1904).... The administrators are Prof. PhDr. Jarmila Gabrielova and PhDr. Jarmila Tauerova. The period of 2000-2004 is considered the opening phase, involving the definition of the edition, establishing of editorial guidelines, mastering the computer notation, source preparation, and presentation of 4 or 5 signal items. The responsibility for the cultural heritage of the past is manifest in this project that, at the same time, corresponds with today's main trends and targets of world musicology as well as with the requirements of the contemporary performing practice.

従って、ベーレンライター版は新全集版というより、既存の「スプラフォン・プラハ版」を、装いを新たにセット販売するものであるように思われる。すると、その「スプラフォン・プラハ版」とは何かというのが知りたいところなのだが、一般に「スプラフォン版」と呼ばれるのは、オタカル・ショウレク(Otakar Sourek)らが編集したもので、日本では黄色い表紙の「ジェスク版」として知られている楽譜だろう。これは巻末に詳しい注解があって、自筆譜と古い出版譜の比較や、それらをどうやってこの版に採用したかが具体的に示されており、なかなか優れたものだ。最近では、この楽譜を使って、より作曲者の意図に近い形で演奏しようという試みも少なくない(たぶん)。では、ベーレンライター版は、この「ジェスク版」と同じなのだろうか。

両版はアクセント記号やホルンの記譜法が異なる。(参考)ベーレンライター版は音友版に近い

『楽譜音楽書展望』の広告には、「新世界」第2楽章冒頭のスコアの写真が掲載されているので、この部分をベーレンライター版(1:左上)、ジェスク版(2:左下)、および参考までに古い音友版(3:右上)、自筆譜(4:右下)と比較してみよう。違いが分かりやすいホルンパートの最初の5小節を拡大してみる。

(1)と(2)では、まずアクセント記号の使い方が異なる。ジェスク版では4小節目が(自筆譜のように)山型の強アクセントになっているのに対し、ベーレンライター版(および旧音友版)では横型のアクセントだ。そしてもっと大きな違いが4番ホルンの調性。(1)(3)はこのパートをin Cで記譜しているのに、(2)はin Eになっている。

これらの点は、ジェスク版の注解で具体的に説明されている。まずアクセント記号の使い方について:

ジムロック版は自筆楽譜にある大部分の強アクセントを横向きのアクセントに置き換えている。この点、最初の校訂版ではところどころで自筆楽譜に戻っている;新版では自筆楽譜にあるアクセントの種類を一貫して守り、いくつかの明らかに誤った部分のみを例外とした。

ジムロック版は1894年の最初の出版譜(旧音友版がこれに近いと思われる)。「最初の校訂版」というのは、オタカル・ショウレクらによる1955年の旧校訂を指す。現在のジェスク版スコアの(c)標記は1955のままだが、前書きの最後に「最初の校訂版が出版されてからの20年間に、全集版の編集方針が深まり広げられたので(…)新たな編集を行う必要に迫られてきた」とあるように、より新しい校訂が加えられている(インディアナ大学図書館の資料を見ると1977年となっている)。4番ホルンについての注解は次のとおり:

第1-5小節で作曲者は、4番ホルンをはっきりした理由なしにハ調にしており、ジムロック版もこれを踏襲している。楽章が進むにつれ、このホルンは他の3本同様ホ調とされているので、我々の版ではこれら最初の7音もホ調とした。

要するに、ジェスク版(新校訂版)の編集者が古いジムロック版(and/or旧校訂版)から改めたと主張している内容を、ベーレンライター版は採用していないわけだ。理由はよく分からないが、すくなくとも(この広告を見る限り)ベーレンライター版は新校訂版(いわゆるスプラフォン版)とは異なっており、むしろ古い版に近いように思われる。

面白いことに、最近ポケット・スコアの改訂に熱心な音友から、今年になって「新世界」のスコアも新しくなって登場している。某ヤマハの楽譜担当の方と少し話したところでは、音友新版は「ジェスク版を参考に独自に校訂した」ということらしく、立ち読みした記憶によれば、第2楽章冒頭の4番ホルンはin Eになっていた。もっとも、たとえばアクセントは横型を採用するなどジェスク版と同じというわけでもなく、ざっと見た感じではむしろ1990年のブライトコプフ版(指揮者用スコアを立ち読み)に近い印象。いずれにしてもその校訂の根拠は全く述べられていないので、残念ながら中途半端な楽譜になってしまっているのだが。

こんな訳で、今のところベーレンライターの全集セットを購入するには至っていない。分売が出るか、あるいはどこかの図書館が購入するのを待って、内容をきちんと確認してからでないと、手を出しにくいよな。その前に「新世界+ドボコン」演奏会は終了してしまって、またドボルザークとはあまり縁のない生活に戻ってしまいそうなのではあるが。

〔追記〕楽譜屋で「Barenreiter Praha」(1998年にベーレンライターがSupraphon Prahaの株主となり、1999年からEditio Barenreiter Prahaとなっている)版の大型スコアを見かけたので、第2楽章冒頭を開いてみたら、『楽譜音楽書展望』に掲載されている写真と同一だった。他の部分をいくつかチェックしてみたところ、第2楽章だけを取っても、91小節のクラリネットのアクセント削除、この付近での弱音器を外す指示など、新しい校訂で追加された変更が反映されていない模様。

スコアには(c)2001と記されてはいるが、これはもしかすると1955年の「旧」校訂版をそのままリプリントしているのではないかという気がしてくる。今度お手伝いする演奏会用に配布されたパート譜は1955年の「プラハ版」(旧校訂版、あるいはアルティアArtia版)のようだが、その楽譜番号はH 1115a。新校訂のスプラフォン版(およびジェスク版)の番号はH 1603なのに対し、Barenreiter Prahaの新世界スコアのカタログ番号は、H 1115だ。

〔追記2〕ブライトコプフの新版は、リーデル(Christian Rudolf Riedel)が校訂したもので、ブライトコプフのサイトの情報によると、紛失したと考えられていた初演時の資料をニューヨーク・フィルのアーカイブから発掘するなど、様々なソースを検討したと謳われている。

〔追記3〕いわゆる「スプラフォン版」の新旧の違いについては、インバル指揮の「新世界」のライナーノートに金子さんが次のようなコメントを書いている:

ドヴォルザークの交響曲も、音楽学の研究が徐々に実演に反映されつつある。55年頃から、チェコで順次、刊行された旧全集(以降旧版と略す)に於ける《新世界》は、変に弄り過ぎていたり、重要なポイントが曖昧だったりしたために、チェコの指揮者ですら、あまり信頼を置いていないような有様だった。

(中略)

恐らく内部的にも、批判があったのだろう。意外に早くスプラフォンから新版が刊行されるに至った。86年頃に出たこの新クリティーク・エディションは(新版と略す)、多面的な視点から旧版の問題点を修正したもので、現在のところ、最も信頼の置ける版と見做せる。(以下略)

「プラハ版」「アルティア版」などといろいろ呼び方があってややこしいが、古い方の「スプラフォン版」は、あまり信頼できないというのがどうも定説らしい。

〔追記4〕新世界の自筆譜ファクシミリ日本語版が出るらしい。

(公開; 更新)