ベートーベン:ミサ・ソレムニスの歌詞と音楽

ベートーベンの「ミサ・ソレムニス」を演奏した機会に、その曲の構成と歌詞について調べたことをまとめたものです。

曲の概要

曲名
ミサ・ソレムニス 作品123
Missa Solemnis Op.123
作曲時期
1819/23
初演
1824-04-07@サンクト・ペテルブルク
1824-05-07@ウィーン(キリエ、クレド、アニュス・デイ)
楽章構成
  1. キリエ
  2. グローリア
  3. クレド
  4. サンクトゥス
  5. アニュス・デイ
編成
Fl:2; Ob:2; Cl:2; Fg:2; Cfg:1; Hr:4; Tp:2; Tb:3; Timp; Org; Str; SATB; Chor
ノート

ベートーベンは1807年(交響曲第5番、6番の頃)にハ長調のミサ曲を書きました。この端正な作品についてベートーベンは(評判は芳しくなかったものの)「この曲をとりわけ心に留めています」 [letters, p.76]と述べていますが、1809年には「古い教会旋法においては敬虔さは神からのものであり、そうだとも、神がいつか私にそれを表現させてくれることを」[Kirkendale p.676]と、古典派とは異なる手法を用いる構想が芽生え、1818年には日記に「真の教会音楽を書くためには…すべての修道院の聖歌と、最も正確な翻訳と韻律によるあらゆるキリスト教会の詩篇と讃歌全般の節に目を通すこと」[thayer, p.715]と書くなど、新しい宗教音楽のあり方を考えていました。翌年、ルドルフ公の大司教就任の報が、これを実現する新たなミサ曲に着手する直接のきっかけになります。

ベートーベンは神を信じていたようですが、日記に「神は、非物質である。したがって彼はすべての観念を超えている」「世界の状況の中で秩序と美が輝き出るときには、神が存在する」など、バラモンのヴェーダやカントの哲学書がしばしば引用されているように、かならずしもキリスト教(教会)的な神への信仰というわけではありませんでした。この曲も、ミサ式文の教義にではなく、そのテキストに現れる普遍的な神と地上の人間の表現を捉えて、音楽が付与されています。このためにベートーベンは、教会旋法やヘンデルらの技法をも取り入れ、またテキストの意味を象徴的に表現するモチーフを多用しながら、複雑で巨大な音楽を作り上げました。当初目指した大司教就任式での演奏には到底間に合わず、4年の歳月を傾けた渾身の作となります。

各曲の詳細

ミサ・ソレムニスを構成する5曲それぞれについて、歌詞の対訳、訳注、音楽上の構成、概要説明と譜例の順で紹介します。なお、シューベルトのミサ曲第5番で調べた内容は個別の訳注にリンクする形としていますので、より詳しい語の解釈や背景について必要に応じ参照してください。

第1曲:キリエ

Kyrieキリエ
Kyrie eleison.主よ、憐れんでください。
Christe eleison.キリストよ、憐れんでください。
Kyrie eleison.主よ、憐れんでください。
  • kyrie : ギリシャ語kurios(主人)の呼格=主よ。
    eleison : ギリシア語eleeo(憐れむ、同情を抱く)の命令形のラテン語読み。
  • Christe : Christus(m, キリスト)の呼格。
曲の構成
小節調・拍子曲想標語歌詞(最初)
1-85ニ長調 2/2 - 嬰ヘ長調 - ロ短調Assai sostenuto Mit AndachtKyrie eleison.
86-127 ロ短調 3/2 - ト長調 - イ短調 - ハ短調 - 嬰ヘ短調 Andante assai ben marcato Christe eleison.
128-223ニ長調 2/2 - ト長調 - ニ長調Tempo IKyrie eleison.

敬虔な心をもって[1]と記されたAssai sostenutoは、力強いニ長調の和音が付点のリズムで堂々と全管弦楽によって奏され、すぐにpで四度上昇して順次下降する弦のモチーフAが答えます[2]。続けて木管が、同じく付点のリズムで、旋律的に下降する音形を奏で始めます(下降する音形、特に三度下降は、全曲を通して重要な役割を担うでしょう)。冒頭の和音が戻って合唱が"Kyrie"を歌います。独唱は木管と同じく付点で下降する旋律で合唱と対比され、ニ長調の和音が音域を高めながら3回繰り返されます。

Alt独唱から始まる"eleison"、そしてしばらくしてからObにあらわれる旋律は、いずれもAから導かれたと考えることができるでしょう。

ロ短調3/2に転じてテンポが速くなる中間部は、三度下降する"Christe"の呼びかけと、Aが発展した"elseison"が重ねられ、まず独唱で、続いて合唱で歌われます。

冒頭の和音が戻って再現が始まりますが、合唱が"Kyrie"を歌うところからト長調に転じます(このミサ曲では下属和音が重要な役割を担います[3])。最後はニ長調に戻り、静かに曲を閉じます。

第2曲:グローリア

Gloriaグローリア
Gloria in excelsis Deo,栄光がいと高きところで神に、
et in terra pax hominibus bonae voluntatis.そして地上で、平和が悦びの心にかなう人々に。
Laudamus te, benedicimus te,わたしたちは誉めます、あなたを、祝ぎます、あなたを、
adoramus te, glorificamus te.敬います、あなたを、称えます、あなたを。
Gratias agimus tibi わたしたちは感謝します、あなたに、
propter magnam gloriam tuam.大いなる栄光のゆえに、あなたの。
Domine Deus, Rex coelestis,主よ、神よ、天の王よ、
Deus Pater omnipotens.神よ、父よ、全能の。
Domine fili unigenite, Jesu Christe,主よ、ひとり生まれた子よ、イエス・キリストよ、
Domine Deus, agnus Dei, filius patris.主よ、神よ、神の子羊、父の子よ。
Qui tollis peccata mundi, 取り去る方、世の罪を、
miserere nobis,憐れんでください、わたしたちを、
qui tollis peccata mundi,取り去る方、世の罪を、
suscipe deprecationem nostram,受け入れてください、わたしたちの願いを、
qui sedes ad dexteram patris,座っている方、父の右に、
miserere nobis,憐れんでください、わたしたちを、
qui sedes ad dexteram patris,座っている方、父の右に、
ah miserere nobis, o! miserere nobis.あぁ、憐れんでください、わたしたちを、おぉ!憐れんでください、わたしたちを。
Quoniam tu solus sanctus,なぜならあなただけが聖であり、
quoniam tu solus dominus,なぜならあなただけが主であり、
quoniam tu solus altissimus, Jesu Christe,なぜらなあなただけが至高なのです、イエス・キリストよ、
cum Sancto Spiritu in gloria Dei patris,聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに、
amen.そうでありますように。
gloria in excelsis Deo, gloria.栄光がいと高きところで神に、栄光が。
  • gloria : gloria(f, 栄光)の単数主格。
    in : 前置詞:~において(奪格支配=時間・場所のある一点で)、~へ(対格支配=ある方向、時に向かって)
    excelsis : excelsus(非常に高い)の男性単数奪格=非常に高いところ。in+奪格は「~において」。
    Deo : deus(m, 神)の単数与格。
    Gloria Deoは動詞が省略された文で、「栄光が神に(ありますように)」。次の文と合わせてルカ2:14からの引用。神の子の誕生の時に、野の羊飼いたちに向かって、天の軍勢が天使とともに神を賛美して歌った。
  • et : 接続詞「そして」
    terra : terra(f, 地)の単数奪格。
    pax : pax(f, 平和、平安)の単数主格。
    hominibus : homo(m, 人)の複数与格=人々に。
    bonae : bonus(良い)の女性単数属格。
    voluntatis : voluntas(f, 意志、気持ち、選択、好意)の単数属格。
    bonae voluntatisは普通に訳せば「良い意思の」「善意の」だが、属格を柔軟に訳して「悦びの心にかなう」としてみた。シューベルト・ミサ曲第5番の訳注も参照
  • laudamus : laudo(誉める、賛美する)の1人称複数・現在形=我々は誉める。
    te : 二人称単数代名詞tu(あなた)の対格=あなたを。
    benedicimus : benedico(祝福する)の1人称複数・現在形=我々は祝ぐ < bene(良く)+dico(言う)。
  • adoramus : adoro(祈る、敬う、拝む)の1人称複数・現在形=我々は敬う < ad(~に向かって)+oro(語る)。adoramusでは敬虔な気持ちが音楽的に表現されることが多い。
    glorificamus : glorifico(称える、称賛する)の1人称複数・現在形=我々は称える < glori(栄光)+fico(作る)。
  • gratias : gratia(f, 感謝)の複数対格=感謝を。
    agimus : ago(する、行動する)の1人称複数・現在形。cf.英agent, act
    tibi : 人称代名詞tu(あなた)の2人称単数与格=あなたに。
  • propter : +対格で「~の近くに、~のために、~によって」。
    magnam : magnus(大きい)の女性形単数対格。
    gloriam : gloria(f, 栄光)の単数対格。
    tuam : 所有代名詞tu(あなた)の2人称女性単数・対格=あなたの。
  • Domine : dominus(m, 主)の単数呼格。
    Deus : deus(m, 神)の単数呼格。
    Rex : rex(m, 王)の単数呼格。
    coelestis : caelestis(天の)の男性単数呼格caelestisの別表記。
  • Pater : pater(m, 父)の単数呼格。
    omnipotens : omnipotens(全能の)の男性単数呼格 < omni(全ての)+potens(可能な)。
  • Jesu : Jesus(m, イエス)の呼格。
    Fili : filius(m, 息子)の単数呼格。
    unigenite : unigenitus(一人子の)の男性単数呼格 < uni(ひとつ)+genitus(生まれた)=gigno(生みだす、産む)の完了受動分詞。シューベルト・ミサ曲第5番の訳注も参照
  • agnus : agnus(m, 小羊)の単数主格。
    Dei : deus(m, 神)の単数属格。
    filius : filius(m, 息子)の単数主格
    Patris : pater(m, 父)の単数属格。Filiusは主格なので、Filius Patrisで「父の息子」。
  • qui : 関係代名詞・男性単数主格、~である人(もの)は。
    tollis : tollo(取り除く)の2人称単数・現在形。
    peccata : pecco(n, 誤り、過ち、宗教上の罪)の複数対格。
    mundi : mundus(m, 世界)の単数属格。
  • miserere : misereor(憐れむ)の2人称単数・命令形。シューベルト・ミサ曲第5番の訳注も参照
    nobis : 人称代名詞nos(わたしたち)の1人称複数与格=わたしたちに。nobisはnosの与格と奪格どちらもあり得るが、misereorは属格もしくは与格を支配する自動詞(形式受動態動詞)なのでここは与格ということになる。
  • suscipe : suscipio(引き受ける、受け入れる)の2人称単数・命令形。
    deprecationem : deprecatio(f, 哀願)の単数対格=願いを
    nostram : 所有代名詞noster(我々の)の1人称複数・女性形単数対格
  • 式文ではqui sedes ad dexteram patrisは繰り返されないが、ベートーベンはこれを反復し、qui tollisを2回、qui sedesを2回で中間部を前半と後半に配分した。
  • 最後には式文にないah、o!といった感嘆の間投詞が加えられる。
  • quoniam : 接続詞「~だから、なぜなら」。
    tu : 二人称単数代名詞tu(あなた)の主格。
    solus : solus(単独の、唯一の、ひとつの、~だけ)の男性単数主格。
    sanctus : sanctus(神聖な)の男性単数主格。
  • dominus : dominus(m, 主)の単数主格。
  • altissimus : altus(高い)の男性単数主格・最上級=最も高い。
  • cum : 奪格支配前置詞~とともに。
    sancto : sanctus(神聖な)の男性単数奪格男性単数奪格。
    Spiritu : spiritus(m, 聖霊)の単数奪格。最後に聖霊が登場。
  • amen : 「そうなりますように」を意味するヘブライ語。
  • ベートーベンは式文の冒頭を反復している。
曲の構成
小節調・拍子曲想標語歌詞(最初)
1-127ニ長調 3/4 - ト長調Allegro vivaceGloria in excelsis Deo,
128-173変ロ長調 - 変ホ長調Meno AllegroGratias agimus tibi
174-229変ホ長調 - ニ長調 - ヘ長調Tempo IDomine Deus, Rex coelestis,
230-309 ヘ長調 2/4 - ニ長調 - 変ロ長調 - 変ニ長調 - ニ長調 - ト長調 - 嬰ヘ短調 Largetto Qui tollis peccata mundi,
310-359イ長調 3/4 - ハ長調 - ニ長調Allegro maestosoQuoniam tu solus sanctus,
360-427ニ長調 4/4 (フーガI)Allegro, ma non troppo e ben marcatoin gloria Dei Patris
428-458ニ長調 (フーガII)in gloria Dei Patris
459-524ニ長調 2/2 - ハ長調 - ニ長調Poco più Allegroamen in gloria Dei Patris / quoniam tu solus
525-569ニ長調 3/4 - ト長調 - ニ長調PrestoGloria in excelsis Deo,

忙トランペットが加わった管弦楽の輝かしいニ長調の響きに乗って、合唱が上昇する讃美をカノン風に歌い始めます[4]。合唱は"gloria"で息を揃えたかと思うとすぐまた追いかけっこを始め、神を讃える噴水があちこちで吹き上がるよう。「神」「天」という言葉には高く力強い音が、「地上」「人々」には低くやわらかな音が与えられ、鮮明に対比されています。

変ロ長調になってテンポがやや落ちると、独唱が"Gratias agimus tibi"を歌い、合唱が受け継ぎます。柔和な気分は長くは続かず、テンポが戻って冒頭の讃歌を管弦楽が奏でますが、今度は変ホ長調。合唱は付点のリズム(冒頭を思い出します)で"Domine Deus"を歌い、"omni potens"で初めてトロンボーンが登場してfffの頂点が築かれます。

次の節をニ長調で残像のように歌ったあと、もう一度こんどはヘ長調で冒頭の讃歌、そして"filius patris"を歌いきって、ヘ長調2/4のLarghettoとなります。木管のやわらかな導入に続いて独唱が歌う"Qui tollis"の下降音程には、"Domine Deus"の姿も垣間見えます。なかなか主和音が現れず借用和音が続くため、不安定で漂う感じ。

調号がニ長調、そして変ロ長調と移って、"qui sedes ad dexteram patris"でようやく主和音を決然とした付点リズムで斉唱します。式文の"Qui tollis"は3つの句から成っており、通常はこれにそって曲が付けられますが、ベートーベンは"qui sedes ad dexteram patris"をもう一度繰り返し、ト長調を導きます。またもや和声は不安定となり、さらに「あぁ」「おぉ」という感嘆詞を加えて切々と"miserere nobis"を歌って、静かなピチカートで中間部を閉じます。

"Quoniam"からAllegro maestosoになって終結部が始まるのは古典派ミサの伝統通りですが、ニ長調の調号に対して最初に管弦楽のユニゾンで奏される分散和音はドミナントのイ長調。さらにすぐに主和音に解決せず、Ten独唱が歌うのはハ長調のカデンツです。Sop独唱を迎えたあとではじめてニ長調の主和音が響きます。キリエの冒頭、グローリア讃歌の主題そして"Domine Deus"に見られた付点のリズムは、ここで最も明瞭な形でその存在を主張しています。

4/4になって長大なフーガが始まります。フーガ主題の"amen"には、キリエのAの反映を聞くこともできるでしょう。合唱と管弦楽が60小節あまり展開したあと独唱に受け継がれ、合唱のストレッタを経てテンポが一段階上がります。軽やかな独唱が反行形や反行+逆行といった技巧を繰り広げながら合唱が重なり、強弱のコントラストを繰り返しつつ、最後のPrestoに突入します。

Prestoでは、圧縮された冒頭の讃歌がHrから始まって次々と畳み掛けられ、転調と拍節のずれで強い緊張を与えながら怒涛のようになだれ込み、頂点でト長調に。このまま華麗なゴールと思いきや、これを下属和音とした変終止でニ長調に帰還するというスリリングな転調で決着します。最後に響き渡る合唱の"gloria"が印象的です。

第3曲:クレド

Credoクレド
Credo, credo in unum Deum,わたしは信じる、信じる、ひとつの神を、
patrem omnipotentem,父を、全能の、
factorem coeli et terrae,つくり主を、天と地の、
visibilium omnium et, et invisibilium. 見える全てのものそして、そして見えないものの。
Credo, credo in unum dominum Jesum Christum,わたしは信じる、信じる、ひとつの主、イエス・キリストを、
filium Dei unigenitum神のひとり生まれた子を
et, et ex patre natum ante omnia saecula,そして、そして父から生まれた方、全ての世に先立って、
Deum de Deo, lumen de lumine,神からの神、光からの光、
Deum verum de Deo vero,真の神からの真の神、
genitum, non factum,生まれた、つくられることなく、
consubstantialem patri,一体である、父と、
per quem omnia facta sunt,その方によって全てのものはつくられた、
qui propter nos homines その方はわたしたち人間のために
et propter nostram salutem そしてわたしたちの救いのために
descendit de coelis. 降り来たった、天から。
Et, et incarnatus est de spiritu sancto そして、そして肉体を与えられた、聖霊によって
ex Maria virgine,処女マリアから、
et Homo factus est,そして人となった、
crucifixus etiam pro nobis, 十字架につけられた、わたしたちのために、
sub Pontio Pilatoポンティオ・ピラトのもとで
passus et sepultus est. 苦しみを受け、そして葬られた。
Et resurrexit tertia die secundum scripturasそして復活した、3日目に、書かれてあるとおりに
et ascendit in coelum,そして昇った、天へと、
sedet ad dexteram patris,座っている、父の右に、
et, et iterum venturus est cum gloriaそして、そして再び来たって、栄光とともに
judicare vivos et mortuos,裁く、生者を、そして死者を、
cujus regni non erit finis. その国の終わることはない。
Credo, credo in Spiritum Sanctumわたしは信じる、信じる、聖霊を
Dominum et vivificantem,主、そして生命を与えるものを、
qui cum patre filioque procedit,父と子とともに出でたものを、
qui cum patre et filio simul adoratur et conglorificatut, 父と子とともに同時に敬われそして称えられるものを、
qui locutus est per Prophetas,預言者たちを介して語ったものを、
credo, credo in unam sanctam catholicam et apostolicam ecclesiam,わたしは信じ信じるひとつの聖公使徒継承教会を、
confiteor unum baptisma, in remissionem peccatorumわたしは受け入れるひとつの洗礼を、罪の赦しへ
et exspecto resurrectionem mortuorumそして待ち望む、復活を、死者の
et, et vitam venturi saeculi. そして、そして生命を、来たるべき世界の。
amen.そうでありますように。
  • credo : credo(信じる)の1人称単数・現在形。credo in+対格 「~を信じる」。ここで初めて「私」を主語にする動詞が出てくる。
    unum : unus(一つの、唯一至高の)の男性単数対格。cf. unigeniteのuni。シューベルト・ミサ曲第5番の訳注も参照
    Deum : deus(m, 神)の単数対格。
  • factorem : factor(m, 作り主)の単数対格。 < facio(作る)
    coeli : caelum(n, 天)の単数属格caeliの別表記。シューベルト・ミサ曲第5番の訳注も参照
    terrae : terra(f, 地)の単数属格。
  • visibilium : visibile(n, 見えるもの)の複数属格 < visi(見る)+ -ibile(可能な)。
    omnium : omnis(全ての)の中性複数属格。
    invisibilium : invisibile(n, 見えないもの)の複数属格 < 否定のin+visibilium。
  • dominum : dominus(m, 主)の単数対格。「ひとつの主」というのは落ち着きの悪い訳語だが、unumはとりあえずすべて「ひとつの」としておく。
    Jesum : Jesus(m, イエス)の単数対格。
    Christum : Christus(m, キリスト)の単数対格。
    ここから2番目に信じるもの、神の子=イエス・キリストのエピソードが始まってcujus regni non erit finisまで延々と続く。
  • filium : filius(m, 息子)の単数対格。
    unigenitum : unigenitus(一人子の)の男性単数対格。キリスト教的には「神の独り子」。
  • ex : +奪格で「~から、~の中から外に出て」。
    Patre : pater(m, 父)の単数奪格。
    natum : natus(生まれた)の男性単数対格。 < nascor(生む)
    ante : +対格で「~の前に」。
    omnia : omnis(全ての)の中性複数対格。
    saecula : saeculum(n, 世、年代、世代、世紀)の複数対格。
  • de : +奪格で「~からの」。ex+奪格はout(外に出る)という感じなのに対して、こちらはfrom(~から)と始点を示す感じ。
    Deo : deus(m, 神)の単数奪格。
    lumen : lumen(n, 光)の単数与格。
    lumine : lumen(n, 光)の単数奪格。
  • verum : verus(正しい、真の)の男性単数対格。ここの英訳がVery God of very Godであることからも分かるように、very(まさに)の語源でもある。verifyも同根。
    vero : verus(正しい、真の)の男性単数奪格。
  • genitum : gigno(生む)の完了受動分詞・男性単数対格。
    factum : facio(作る)の完了受動分詞・男性単数対格。
    「つくられることなく生まれ」とは、神と被創造物という関係ではないと言いたい。シューベルトのミサ曲第5、6番ではこの行と次の行が省かれている。
  • consubstantialem : consubstantialis(一体の)の男性単数対格。 < sub(~の下の、~の基をなす)+stantia(本質)。
    patri : pater(m, 父)の単数与格。
  • facta : facio(作る)の3人称複数完了形・受動態。facta suntで「作られた」。
    sunt : sum(~である、~がある)の3人称複数・現在形。
  • nos : 人称代名詞nos(私たち)の1人称複数対格。
    homines : homo(m, 人)の複数対格。
  • nostram : 所有代名詞nos(私たち)の1人称女性単数対格。
    salutem : salus(f, 救い、救助)の単数対格。
  • descendit : descendo(下る)の3人称単数・完了形。 < de-(意味を反対にする)+scando(のぼる)。
    coelis : caelum(n, 天)の複数奪格caelisの別表記。
  • incarnatus : incarno(肉体を与える、肉体化する)の3人称単数・完了形受動態。 < in(中に)+ caro, carni(肉)。典礼ではここで一同が跪くので、通常どのミサ曲でもここで音楽が一旦区切られ、瞑想的な雰囲気になる。
    est : sum(~である、~がある)の3人称単数・現在形。
  • Homo : homo(m, 人)の単数主格。
    factus : facio(作る)の3人称単数・完了形受動態。直訳すると「そして人がつくられた」。
  • crucifixus : crucifigo(十字架につける)の3人称単数・完了形受動態 < crux(十字架)+figo(固定する)。
    etiam : 副詞「さらに、~までも」。
    pro : 基本的には「前へ、ある方向に向かって」。+奪格で「~のために、~の代わりに、~の前に」。
  • sub : +奪格で「~の下で、~のもとで」。
  • passus : patior(苦しみを受ける)の3人称単数・完了形。cf.英passion(情熱、受難)
    sepultus : sepelio(葬る)の3人称単数・完了形受動態。
  • resurrexit : resurgo(起き上がる)の3人称単数・完了形 < re(再び)+surgo(たち上がる)。通常ここから最初のテンポに戻る。cf.英resurrection
    tertia : 数詞tres(3)の女性形・単数奪格=第3の。
    die : dies(f, 日)の単数奪格。
    secundum : +対格「~によれば、~の通りに、~のあとで」
    scripturas : scripta(f, 書かれたもの)の複数対格 < scriptus(書かれた) < scribo(書く)。ここでは聖書を指す。
  • ascendit : ascendo(上る、昇る)の3人称単数・完了形 < scando(のぼる)。
    coelum : caelum(n, 天)の単数対格caelumの別表記。in+対格で「~に向かって」(レクイエムのin paradisumが「楽園へ」なのと同じ)。
  • sedet : sedeo(座っている)の3人称単数・現在形。ここまで完了形だった動詞がここで現在形になる。今は座っている。
    dexteram : dextera(f, 右)の単数対格 < dexter「右の」。
    ad : +対格「(空間)~へ、~の近くに、(時間)~に、~まで」。
  • iterum : 副詞「再び、二度目の」 < itero(繰り返す)。cf.英iteration
    venturus : venio(来る)の未来能動分詞=来ることになっている。ここからは未来の話。
    gloria : gloria(f, 栄光)の単数奪格。
  • judicare : judico(裁く)の不定法現在 < jus(法規、裁判所)+dico(言う)。シューベルト・ミサ曲第5番の訳注も参照
    vivos : vivus(生きている)の男性複数対格の名詞形=生者らを。
    mortuos : mortuus(死んでいる)の男性複数対格の名詞形=死者らを。
  • cujus : 関係代名詞qui(その人は)の単数属格=その人の
    regni : regnum(n, 王国)の単数属格=王国の < rego(支配する、治める)。男性名詞は rex(王)。
    erit : sum(~である)の3人称単数・未来形。
    finis : finis(m, 終わり)の単数主格。
  • Spiritum : spiritus(m, 聖霊)の単数対格。
    sanctum : sanctus(神聖な)の男性単数対格。
    前節まででイエス・キリストについての長い話が終わって、今度は3番目の聖霊を信じるというエピソードになる。通常ここで音楽も一息入れて仕切り直される。
  • Dominum : dominus(m, 主)の単数対格。
    vivificantem : vivificans(m, 生命を与える者)の単数対格 < vivifico(生命を与える) < vivi(命)+facio(作る)。
  • filioque : filio(filius=息子=の単数奪格)+-que「~と」。Patre Filioque は Patre et Filio と同じ。いわゆるフィリオクェ問題の箇所。シューベルト・ミサ曲第5番の訳注も参照
    procedit : procedo(進み出る)の3人称単数・現在形 < pro(前へ)+cedo(行く、動く)。cf.英proceed。
    ここは式文ではqui ex patre~(父と子より出でたものを)で、初版からずっとexとされてきたが、新ベートーベン全集(ヘンレ版)でcumに改められた。自筆譜は確認できていないが、Artaria 195に収録されたスケッチでは確かにcumになっている。ベートーベンはミサ曲ハ長調でもcumとしていた。ただしベートーベンが式文を勘違いしていたわけではなく、ミサ・ソレムニスに取り組む前にラテン語を吟味検討してドイツ語に訳したメモではexと書かれている。
  • filio : filius(m, 息子)の単数奪格。
    simul : 副詞「一緒に、同時に」 < similis(似ている)。cf.伊simile, 英simultaneous, simulation。
    adoratur : adoro(祈る、敬う、拝む)の3人称単数・現在形受動態。
    conglorificatur : conglorifico(称える、称賛する)の3人称単数・現在形受動態 < con(共に)+glori(栄光)+facio(作る)。
  • locutus : loquor(語る)の3人称単数・完了形能動態。
    Prophetas : propheta(m, 預言者)の複数対格。per+対格「~によって、~を通じて」。
  • unam : unus(一つの、唯一至高の)の女性単数対格。
    catholicam : catholicus(普遍的な、万人の)の女性単数対格=普遍的な、万人の
    apostolicam : apostolus(使徒)の女性単数対格=使徒継承の
    ecclesiam : ecclesia(f, 教会)の単数対格=教会を
    教会の話は早口であっという間に通りすぎる。シューベルトはすべてのミサ曲でこの行を省略した。
  • confiteor : confiteor(認める、告白する)の1人称単数・現在形。 < fateor(認める、知らせる)。「私」を主語にするもう一つの動詞。
    baptisma : baptisma(n, 洗礼)の単数対格。マルコ1:4に「罪の赦しにいたる悔い改めの洗礼」があるが、これは洗礼者ヨハネの話で、イエスはこんなことは言っていない。使徒信条ですら「罪の赦しを信じる」はあるけれども、そのために洗礼がどうだとは言っていない。ましてや「唯一の洗礼」などとは。
    remissionem : remissio(f, 容赦、免除、解放)の単数対格 < missio(解放)。in+対格は「~の方向に向かう、~まで、~を目的とする」で、式文としては「赦しのための洗礼」と訳されるところだろうが、ここでは「赦しにいたるもの」と、並列としても読めるようにした。
    peccatorum : peccatum(n, 罪、過ち)の複数属格 < pecco(過ちを犯す)。
  • mortuorum : mortuus(死んでいる)の複数属格の名詞形=死者らの。
  • vitam : vita(f, 生命)の単数対格。
    venturi : venio(来る)の未来能動分詞venturus(来ることになっている)の単数属格。
    saeculi : saeculum(n, 世、世代、年代、時代)の単数属格。
    ここは「来世の生命」と訳されることが多いが、復活願望だけでなくもっと広がりを込めて「来たるべき世界の生命」としておきたい。
曲の構成
小節調・拍子曲想標語歌詞(最初)
1-123 変ロ長調 4/4 - 変ホ長調 - 変ロ長調 - ハ長調 - 変ニ長調 - 変ロ長調 Allegro ma non troppo Credo, credo in unum Deum,
124-143ニ調(ドリア旋法) 4/4AdagioEt, et incarnatus est de spiritu sancto
144-155ニ長調 3/4Andanteet Homo factus est,
156-187ニ短調Adagio espressivocrucifixus etiam pro nobis,
188-193ハ長調 4/4AllegroEt resurrexit tertia die secundum scripturas
194-263ハ長調 2/2 - ヘ長調 - 変ハ長調 - ニ長調 - ハ長調Allegro moltoet ascendit in coelum,
264-305 ヘ長調 4/4 - 変ロ長調 - ヘ長調 Allegro ma non troppo un poco maestoso Credo, credo in Spiritum Sanctum
306-372変ロ長調 3/2 (フーガI)Allegretto ma non troppoet vitam venturi saeculi, amen
373-432ト短調 (フーガII)Allegro con motoet vitam venturi saeculi, amen
433-472変ロ長調Graveet vitam venturi saeculi, amen

ニ長調の余韻が残る中、半音高い変ホ長調の和音がオクターブの跳躍を伴って朗々と鳴り響きますが、続くカデンツで変ロ長調に着地します。今度は曲を下属和音から始めるという意表をつく方法で、この長大な楽章がスタートするのです。Credoの主題は、《キリエ》で重要だった三度下降と四度上昇の組み合わせ[5]。リズムには付点が組み込まれています。全能のつくり主である神を高らかに歌い、「目に見えないもの」いったん密やかになった後、再びCredo主題が戻ってテーマは神の子に移ります。

「神からの神」の部分を躍動する付点リズムで転調しながら歌うと、「父と一体である」が短いフガートとなります。この主題は、《キリエ》のAと共通すると考えてよいでしょう。また2小節目がsfで強調されるのはCredo主題と同じです。つくられたもの(地上のもの)を歌うので、音域は低くなっています。

変ニ長調の音階で天に上昇していくと、とても柔らかな「私たち人間のために」から徐々に高揚し、「降り来たった」が、象徴的な下降音形で歌われます。弦楽器が順次進行の音階で、合唱が三度の連続で一気に駆け下りたあと、1オクターブ以上跳躍して「天から」になるという具合に、言葉と音を精密に寄り添わせているのです。

Adagioとなってニ短調のドミナントがゆっくりディミヌエンドして始まる受肉劇は、ドリア調です。日記に「本当の教会音楽を書くためには、修道僧たちのすべてのグレゴリオ聖歌に目を通せ」と書き込んでいたように、ベートーベンはこの曲に、古典派以前の音楽が持っていたさまざまな力を注ぎ込もうとしています。第6音が半音上がるため、ハ長調のようにも響き、調性の不確かさがいっそう神秘の感じを増しています。精霊はフルートが奏でる鳩の姿を借りてやってきます。

「そして人となった」ところはニ長調3/4拍子のAndanteでやや躍動しますが、すぐにニ短調のAgagioに戻り、十字架の苦しみの劇的な表現です。64分音符前倒しされたsfと複雑な和音が異様に緊張を高めます。"crucifixus"の五度下降(特に1つめの減五度)は続くpassusでも用いられ、辛さあるいは不安の象徴音形であると同時に、十字架音形にもなっています。

「そして葬られた」で音が深く沈んでいくと、合唱テノールが高音Gで「そして復活した」と宣言し、全合唱が印象的な(今度はミクソリディア調です)ア・カペラで受け継ぎます。2/2拍子Allegro moltoとなって、「そして昇った、天へと」が合唱バスから順に重なっていきます。この上昇は言うまでもなく「降り来たった」と対になる象徴的な音階です。

高音のffで「裁く」を長く引っ張って「生者を」で半音上昇してすぐ1オクターブ下降するのは、しばしば用いられる劇的な表現。「そして死者を」が急にpになる対比は、前半の「見える全てのもの」と「見えないもの」のコントラストを思い出させます。

何度も転調を重ねたのち、4/4となってB♭の和音が鳴り響くと、これがヘ長調の下属和音となってCredo主題が戻ってきます。ここから教会や洗礼の受け入れに至る式文は、合唱の1声部だけで早口で歌われ、他のパートが唱え続ける"Credo"が教義を圧倒する中、「精霊を信じる」から「洗礼を」までわずか19小節で駆け抜けます。「復活」を上昇する音階で、「赦しへ」「死者の」をpで、それぞれ象徴的に歌い、3/2拍子の結尾部に進みます。

木管がヘ長調から変ロ長調への移行を準備し、「そして生命を、来たるべき世界の」のフーガがAllegretto ma non troppoで始まります。この主題も、三度の下降が重ねられています。"amen"の4分音符は《キリエ》の中間部の"eleison"をも思わせます。この2つが絡みあいながら、合唱によるフーガがじわじわと展開されていきます。

テンポが上がってAllegro con motoになると、音価が半分に圧縮された主題が次々と畳み掛けられていきます。更に元の音価の三度下降が「来たるべき」を繰り返し、「世界の」のffで変ホ長調が現れると、"amen"の三度下降がヘミオラとなって凝縮されたエネルギーがほとばしります。

GraveとなってE♭の和音が響き渡り、ヘンデル風とも称される堂々たる終結部に至ります。これはFの和音で受け止められ、そしてB♭の和音に解決します。つまりGraveの扉は変ロ長調の下属和音で開かれ、最後のクライマックスで冒頭と同じIV-V-Iのカデンツが戻ってくるのです。

第九交響曲の最後のpoco adagioと同じように、四重唱がゆっくりメリスマ的に"amen"を歌い、変ロ長調の和音を連打した後、上昇音階を繰り返しながら曲を閉じます。

第4曲:サンクトゥス

Sanctusサンクトゥス
Sanctus! Dominus Deus Sabaoth.聖なるかな! 主、万軍の神は。
Pleni sunt coeli et terra, gloria tua.満ちています、天と地が、あなたの栄光で。
Osanna in excelsis.オサナ、いと高きところにて。
Benedictus qui venit祝福されますように、来たるものが
in nomine Domini.主の名において。
Osanna in excelsis.オサナ、いと高きところにて。
  • sanctus : sanctus(神聖な)の男性単数主格。式文では3回繰り返され、作曲するときもそれに従うのが一般的だが、ベートーベンは1回(声部によっては2回)のみでしかも感嘆符を加えた(この行全体としては、3回歌われる。2回目以降に感嘆符はない)。
    Deus : deus(m, 神)の単数主格。
    Sabaoth : Sabaoth(n, 万軍、天軍)の属格。
  • pleni : 形容詞plenus (十分な)の男性複数主格=たくさんの、十分な < pleo(満たす)。
    coeli : caelum(n, 天)の複数主格(男性名詞化して変化)caeliの別表記。
    terra : terra(f, 地)の単数主格。
    gloria : gloria(f, 栄光)の単数奪格。
    tua : 所有代名詞tu(あなた)の2人称単数・女性単数奪格。
    イザヤ6:3で六翼の熾天使セラフィムが歌うことばから。シューベルト・ミサ曲第5番の訳注も参照
  • Osanna : マルコ11:9(マタイ21:9、ヨハネ12:13)で、エルサレムに向かうイエスに人々が叫んだとされる言葉。
    excelsis : excelsus(非常に高い)の男性複数奪格。グローリア参照。
  • benedictus : benedico(祝福する)の完了受動分詞=形容詞・男性単数主格。グローリア参照。
    venit : venio(来る)の3人称単数・現在形。
  • nomine : nomen(n, 名前)の単数奪格。
    Domini : dominus(m, 主)の単数属格。
    ベネディクトゥスは全体がマルコ11:9(マタイ21:9、ヨハネ12:13)の引用。シューベルト・ミサ曲第5番の訳注も参照
  • Sanctusの3行目の繰り返し。同じ音楽を繰り返すミサ曲も多いが、ベートーベンは別の音楽を作曲した。
曲の構成
小節調・拍子曲想標語歌詞(最初)
1-33 ニ長調 2/4 - ハ長調 - ニ長調 Adagio Mit Andacht Sanctus! Dominus Deus Sabaoth.
34-52ニ長調 4/4 - ト長調 - ニ長調Allegro pesantePleni sunt coeli et terra, gloria tua.
53-78ニ長調 3/4 (フーガ)PrestoOsanna in excelsis.
79-110ト長調Sostenuto ma non troppo
111-167 ト長調 12/8 - ニ長調 - ト長調 Andante molto cantabile e non troppo mosso Benedictus qui venit in nomine Domini.
168-212ハ長調 - ト長調 - ハ長調 - ト長調Benedictus qui venit in nomine Domini.
213-234ト長調Osanna in excelsis.

再び敬虔な心をもってと記されたAdagioは、Va(途中からVcも)が2部に分けられた低音弦と木管の静かな調べで始まります。ロ短調であるかのように始まりますが、随所に現れる変化音によって調性感は定まらず、8小節目の金管の厳かな和音に至ってようやくI-V-Iのカデンツで主和音に。四重唱奏で3回歌われる「聖なるかな」は、まずニ長調で序奏とほぼ同じ和声進行、2度目はハ長調から始まってロ短調に至ります。3度目は途切れがちに、次第に細かくなる弦の刻みが短属九和音(第九の二重フーガ直前の"über Sternen muß er wohnen"と同じ和音です)を響かせる上で、手が届かないものを探るように半終止します。

ニ長調Allegro pesanteになる"Pleni sunt coeli"は、分散和音を「天は」に向かって駆け上がり、「地も」にいったん低い音を充てから「栄光で」をメリスマ風に16分音符の下降音階で歌います。この明るい旋律がSopから順番に受け渡されていく裏で、伴奏もVnから始まって順次この16分音符で満たされていきます。ドミナントのペダルからうねるような弦に乗ってフェルマータに至る半終止は、ここでも下属和音のG。

3/4拍子のPrestoとなる"Osanna"は、大きく下降しては順次進行で登り直す形を"Pleni"から受け継いでいるのでしょう。ニ長調とイ長調が交互に現れ、3拍目のsfとフェルマータでニ長調のIIの和音を強調した上で主和音に解決し、低音域のDに沈みます。

ここでBenedictusに進む前に、ベートーベンは《プレルーディウム》(Präludium:前奏曲の意味ですが、ベートーベンの時代には祭儀の間の即興的なオルガン演奏を指していたそうです)を置きました。《サンクトゥス》の冒頭と同様の低弦と木管ですが、ここではClではなくFlが用いられ、少し響きが明るくなっています。調号は♯一つであるものの、半音階を交えながらゆっくり順次下降していくバスの上で借用和音が多用され、瞑想的な雰囲気を醸し出します。

和声がト長調に落ち着くと、独奏Vnと2本のFlが高音から舞い降り、"Benedictus"が始まります。合唱のバスが静かに唱える祝福の言葉を受けて、独奏Vnが優美な旋律を奏でます。

独奏Vnがたっぷり歌ったあとで、独唱が同じ旋律で"Benedictus"を歌い始めます。音楽が次第に高まって弦とHrrfの表情を見せると、潮が引くような合唱の"in nomine Domini"。独奏Vnは低音からするすると上昇して天を舞ったかと思うと分散和音で急降下したりと、自由自在にオブリガートを奏でています。

"Osanna"は、《サンクトゥス》に戻るのではなく、跳躍して順次下降する"Benedictus"の流れに沿った新しい旋律が用いられます。合唱が"Benedictus"と"Osanna"をあわせて歌う中、独奏Vnが飛翔して穏やかに曲を閉じます。

第5曲:アニュス・デイ

Agnus Deiアニュス・デイ
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis.神の小羊、世の罪を取り去る方、憐れんでください、わたしたちを。
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis.神の小羊、世の罪を取り去る方、憐れんでください、わたしたちを。
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis. Agnus Dei神の小羊、世の罪を取り去る方、憐れんでください、わたしたちを。神の小羊
Dona nobis pacem.与えてください、わたしたちに、平和を。
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi, miserere nobis. Agnus Dei神の小羊、世の罪を取り去る方、憐れんでください、わたしたちを。神の小羊
Dona nobis pacem.与えてください、わたしたちに、平和を。
Agnus Dei, dona pacem,神の小羊、与えてください、平和を、
dona nobis pacem, 与えてください、わたしたちに、平和を、
dona pacem, pacem.与えてください、平和を、平和を。
  • agnus : agnus(m, 小羊)の単数主格。
    Dei : deus(m, 神)の単数属格。
    tollis : tollo(取り除く)の2人称単数・現在形。
    peccata : pecco(n, 誤り、過ち、宗教上の罪)の複数対格。
    mundi : mundus(m, 世界)の単数属格。
    ヨハネ1:29から。人間存在そのもの(世界)が罪なる存在であるという考え方は苦手なので、フォーレ・レクイエムのAgnus Deiの訳ではここを「世の過ち」とした。レクイエムの場合はmiserere nobisがdona eis requiem(与えてください、彼らに、安息を)となる。
  • 式文では3回めのAgnusの後半がdona nobis pacemだが、ベートーベンはmiserere nobisを3セット作曲して、さらにもういちどAgnus Dei~mundiを繰り返してからDonaに進んだ。
  • dona : do(与える)の2人称単数・命令形=与えてください。
    pacem : pax(f, 平和、平安)の単数対格。
    レクイエムではdona eis sempiternam requiem(与えてください、彼らに、いつまでも続く安息を)。
  • 1回目の戦いの場面で救いを求めるように独唱がAgnusを歌い、合唱がmiserere nobisを唱和する。歌詞としては挙げなかったが、最後にソプラノがAgnus Dei, donaと歌うことで平和の調べが戻る。
  • 2回目の戦いの場面では合唱がAgnusを歌ったのち、ソプラノも加わって、dona pacemと歌う。私たちにだけではなく、普遍の平和とでもいうように。
  • 最後の六度モチーフはア・カペラではなく管弦楽も加わり、歌詞もnobis pacemではなくpacem, pacemとなって締めくくられる。
曲の構成
小節調・拍子曲想標語歌詞(最初)
1-95ロ短調 4/4 - ホ短調 - ロ短調AdagioAgnus Dei, qui tollis peccata mundi
96-163ニ長調 6/8 - イ長調Allegretto vivaceDona nobis pacem
164-189変ロ長調 4/4Allegro assaiAgnus Dei, qui tollis peccata mundi
190-265ヘ長調 6/8 - ニ長調 - ト長調 (フーガ) - ニ長調Tempo primoDona nobis pacem
266-353ニ長調 2/2 - ト長調 - ハ短調 - ト短調 - 変ロ長調PrestoAgnus Dei
354-434変ロ長調 6/8 - ニ長調Tempo primoDona nobis pacem

暗く重々しいロ短調のAdagioです。管弦楽の4小節の導入を受けて、Bas独唱が下属和音(II7)の上で"Agnus Dei"を歌い始めます。ここに見られる短三度の音階は、伴奏の弦楽器には逆の短三度下降音階としても現れ、印象的な表現になっています。"peccata"(罪)の減五度下降は、Credoの十字架と通じる象徴でしょう。

"miserere"では三度下降が繰り返されます。後半には短三度下降音階が、やはりVnの上昇音階と対比されて組み込まれています。2回めの"Agnus"はホ短調から嬰ヘ短調、そして3回めはロ短調に戻ります。

式文では"Agnus Dei"(A)と対になる句は最初の2回が"miserere nobis"(B)、そして3回めが"Dona nobis"(C)となっており、古典派のミサ曲はAB-AB-Aを前半、Cを後半として作曲しているものが多いのですが、この曲ではAB-AB-ABと"miserere nobis"が1回追加されます。そして最後にもう一度"Agnus Dei"を置いてここで大きな転調を行ない、ニ長調6/8拍子の"Dona nobis"を導いています。

合唱の各声部が三度下降の"Dona"を歌って重なり、朗らかなリズムで「私たちに平和を」と唱えます(平和の主題と呼んでおきましょう。Sopからの声部をつないでみると、三度下降が連続していることが分かります)。続いてフガートのように歌われる"pacem"は長三度の音階で始まり、"Agnus"の暗とはっきり対比された明の世界となります。

これがクレッシェンドしたところで突然pになって現れる印象的なア・カペラの"dona"にも同じ長三度上昇音階が聴こえます(これまでにない六度下降が効果的に用いられているので、六度モチーフと呼んでおきます)。このテーマのGを1オクターブ下げてみると三度上昇が重ねられた形になり、ちょうど平和の主題の逆の姿です(《クレド》のフーガ主題の逆でもあるのは興味深いところです)。

短いテキストが、さまざまなモチーフを与えられて繰り返されます。ゆったり下降して上昇する"pacem"、Aの要素を持つ"dona"、そして音価が半分になって逆の動きをする力強い"pacem, pacem"。

この後半部には、戦争を思わせる音楽が2度にわたって変ロ長調で挿入され、ニ長調の主題がそれを包み込みます。ベートーベンがスコアの後半開始部に内的なそして外的な平和の願いと書き込んだとおり、心の平安だけでなく、現実世界の平和への祈りが込められているのです。

まず4/4拍子Allegro assaiの変ロ長調で、Timpが遠くに聴きながら弦楽器が不安な走句("Christe"を少し連想させます)を奏すると、軍楽隊のラッパ(Trp)が鳴り響き、そして独唱がレチタティーヴォ風に"Agnus Dei"を叫びます。

戦いはいったん収まったのか、平和の主題が戻ります。ハ長調から転調しながら展開し、ア・カペラを挟んで六度下降のモチーフがフガート風に発展します。"pacem, pacem"と繰り返すときに再び、今度は2/2拍子Prestoで、荒々しくうねるフレーズ(これは最初の"pacem"のフガートの変形でしょう)と飛び跳ねるようなフレーズ("Agnus Dei"の変形のようにもみえます)が同時に現れ、絡み合います。ニ長調から始まりますが、転調を重ねて再び変ロ長調に至ると今度は軍楽隊は至近距離、そして合唱がffで"Agnus Dei"を唱えます。

繰り返されるラッパと太鼓に、合唱が、そしてSop独唱が"Dona pacem"(nobisがない=私たちにだけではなくすべてに平和を)と叫び返すと、戦いの嵐は過ぎ去り、三たび平和の主題がニ長調で帰ってきます。木管と低弦を伴って歌われ六度モチーフに続いて太鼓の残響が遠くに聴こえますが、"pacem"がこれを遮ります。最後にもう一度、六度モチーフが楽器を増やして力強く奏でられ、下降してきた低音が駆け上がり、ニ長調の和音が壮大な音楽を締めくくります。

試訳について

ベートーベン作曲ミサ・ソレムニスの歌詞の試訳です。ラテン語テキストは、ヘンレ版スコアに記されているものを用いました。反復は基本的には略していますが、アニュス・デイについては曲の構成を踏まえて反復させています。

ミサ典礼式文が元になっていますが、ベートーベンが独自の扱いを施した部分はその通りに訳していますので、一般的なミサ曲の歌詞とは異なる部分があります。また演奏会で歌う曲の歌詞としての訳であり、キリスト教会での祈祷文ではないので、教会用語や通例とは異なる訳語をしばしば用いています。

訳の単位は歌のフレーズを基本とし、語順もフレーズの先頭、最後にくることばをできるだけその位置に置くよう、逐語的に訳しました。

補足

  1. 心から心へ ^: 自筆譜のキリエ冒頭には、Mit Andachtという指示の他にベートーベンが"Von Herzen ― möge es wieder ― zu Herzen gehen"(心から出で、願わくば再び、心へと至らんことを)と書き付けたことはよく知られています。これは人類に向けた普遍的なメッセージと捉えられ、第九と並んで人類愛をうたうベートーベンというイメージに寄与して来ました。一方でロックウッドは、これは出版譜はもちろん自筆譜以外の筆写譜などにも記されていない(後世のスコアは書き加えているものがあるが)ことや関連資料を踏まえると、むしろ私的な(もしかするとルドルフ大公に宛てた)ものとする考え方が出ていることを紹介しています[ロックウッド, pp.603-604]。

  2. 原モチーフ ^: Riezlerはこの四度上昇して順次下降するAを胚モチーフ(germinal motive)と呼んで、ここからミサの様々な主題が生まれるとしているそうです[drabkin, p.8から孫引き]。またキリエの自筆譜を検討したレスターもAを原モチーフ(urmotif)と呼んでいます[lester, p.428]。

  3. 下属和音 ^: この曲の和声分析をしてみると、IVがたくさん出てくること、IV上の借用和音が多用されていることに気付きます。ドラブキンも、この曲の和声的な特徴が下属和音の強調にあるとして、中間楽章がいずれも変格終止であることや、宗教的高揚の表現に第7音が♭になるIV/IV和音が用いられることなどを指摘しています[drabkin, p.22]。

  4. グローリア主題 ^: カーケンデールはこの上昇するanabasis(進軍)の音形は多くのグローリアにしばしば見られると、18世紀末~19世紀の例を挙げて示しています[kirkendale, p.668]。またドラブキンも、ここに祝祭的なバロック音楽、特にヘンデルのオラトリオ的な要素を見ており、他の多くの研究者とともに「メサイア」との関連を指摘しています[drabkin, p.43]。祝祭的な響きは、ナチュラルトランペットが音階を吹ける音域であることも関係しているでしょう。

  5. クレド主題 ^: カーケンデールによれば、4音から成る(しばしば短三度の下降で始まる)クレド主題で"Credo"を2回繰り返すのは、18世紀クレド・ミサの伝統といえるそうです[kirkendale, p.682, n.80]。ベートーベンはこの同じモチーフを同時期に作曲した『神は堅き砦』(WoO 188)でも用いています。

参考文献

主に参考にした文献:

参照楽譜: