花火 第4回演奏会プログラムノート

エルガー:序奏とアレグロ 作品47

文:an anonymous member

行進曲「威風堂々」、3つの交響曲、チェロ協奏曲で有名なエドワード・エルガー(1857-1934)は、ロンドンから離れたウースター地方の楽器商の息子として生まれました。幼い頃のエルガーの生活は、まさに音楽に囲まれたものでした。父の店では楽器や楽譜にふんだんに接し、ピアノの調律の手伝いもしていました。店の向かいには教会があり、町の大きな音楽行事はそこで行われました。このように恵まれた環境も、エルガー16歳のとき、経済的な理由で父が店を続けることができなくなり終わりをつげます。音楽を離れ法律事務所に勤めることになったエルガーですが、それでも音楽の道をあきらめきれず、専門的な音楽教育は一切受けず、ほとんど独学で全ての弦楽器、ピアノ、ファゴット、作曲を学びました。その後音楽教師などで生計を立て、決して豊かではない生活が続きましたが、1899年42歳のとき「エニグマ変奏曲」の成功により世間の名声を得て、後には王室音楽主任に任じられるなど数々の勲章や位を受賞するに至ります。

エニグマ変奏曲はエルガーが友人たちを描写した作品で、それぞれの変奏が友人のひとりひとりを表しています。その第9変奏Nimrod(猟人)の友人オーガスト・イェーガーが、この初期の傑作の一つ「序奏とアレグロ」作曲のきっかけとなりました。

イェーガーは、その当時設立されたロンドン響のために、“輝かしく速い”スケルツォ作品を書くことをエルガーに提案しました。こうして生まれた「序奏とアレグロ」は、その形式とテクスチャの多様性でエニグマ変奏曲の上を行くものであり、エルガー自身も相当自信を持っていたようです。

この作品では、弦楽四重奏と弦楽合奏が合奏協奏曲風に扱われているのが特徴です。

序奏は、エルガーがウェールズに旅行したときに得た着想がもとになっています。エルガーは、曲想が起きたときそれをスケッチブックに書き込み、その曲想を用いるのにふさわしい作品が現れるまで、ときに何年間も熟成させています。1901年8月エルガーは休暇で西ウェールズのカルディガンシアーに来ていました。遠くから聞こえてきたウェールズの民謡が、彼にインスピレーションを与えたのでしょう。エルガー自身がウェールズの調べと呼んでいる曲想はこのとき得られました。当時エルガーはウェールズの音楽の作風を記録し、それをウェールズ序曲の中で用いようと考えていました。ウェールズ序曲は結局完成されませんでしたが、代わりにエルガーは4年後にそのテーマをこの作品の中で用いました。

続くアレグロはABAのソナタ形式ですが、中間部Bは展開形をとらずに全く別のフーガとなっています。イェーガーによる“輝かしく速い”という表現が、まさにアレグロを的確に表現していると思います。

初演は1905年3月8日ロンドン響。初演当時エルガーはすでに名声を得ていましたが、この作品は受け入れられず、初演とその後数回の演奏の後、およそ30年以上も顧みられないまま放っておかれました。この作品が正当に評価されるまでには相当の年月を要しました。作品の複雑さをみて演奏者が演奏を躊躇したこともあるでしょう。オーケストラの弦楽器セクションの技術が大きく向上するのは第二次大戦後以降であり、その頃になってようやくこの作品は演奏会のレパートリーとして取り上げられるようになりました。

最初に譜面を目にしたときの印象よりも、この曲の実際の演奏は格段に難しいことを私たちも実感しました。悪魔のフーガを乗り切って、ウェールズの情緒とイギリス音楽らしいきびきびした爽快さをお伝えできますように。