1907年の維納ハプスブルク帝室歌劇場監督解任と維納フィル指揮者からの離任は、前半生をその地位の獲得に捧げてきたマーラーにとって、とてつもない打撃ではあった。しかし運命は傷心のマーラーに片時も安らぐ隙を与えなかった。維納での解任という醜態から体面を保つためにようやく得た紐育メトロポリタン歌劇場での激務、米欧往復による肉体的疲弊、そのメトロポリタン歌劇場でのトスカニーニの台頭、命を脅かす心臓病の発見、愛娘の夭折、これらはすべて維納の監督解任後に休むまもなく彼の身に降りかかってきたのである。しかし何よりも決定的だったのは、妻アルマのグロピウスとの不倫であった。
巨大な創造的精神そのものであるような人物にはありがちな事であるが、マーラーは常に衝突を辞さず他人に対し自己を貫き通し、他人に自分が望むままの役割を演じさせる事を当然と考える性向があった。殊に親娘ほども歳の離れた妻アルマに対しては、彼女の作曲家としての優れた才能と可能性を弊履の如く捨てさせしめ、かつ万般につけ彼の為にのみ行動し、彼のために生きる事を強要した。ことによるとそれは慈しみ深い彼の母を、いたぶり続けた暴君たる父の呪縛のなせる業だったのかもしれないが、マーラーは妻アルマを彼の母親がそうであったような従順で慈愛に満ちた聖らかな母親であり妻である女性−それは聖母のごときイメージであろうか−に仕立て上げようと躍起になっていた面は否めない。
とは言い条、当然の事ながら、生身の人間は決して他人の思惑通りに動くものではない。ましてや溢れんばかりの才気に満ち、それを十二分に自覚しているアルマにおいてをや。彼女が心底から夫の望む貞淑な妻の役割を演じきろうとしていたとは到底思えない。作曲にて名をあげる機会を奪い、自らの偏狭な恋愛観、家庭観に自分を服従させようとする、ボヘミア出のユダヤ人の田舎者に対する軽侮と愛憎の念を抱く彼女が、先天的ともいえる多情な性向を一気に発露させたのも両者の気質の差異を考えれば、至極当然の成り行きであった。
だが、若き建築家と妻アルマの不倫がマーラーに与えた衝撃は測り知れないものがあった。マーラー一流のやり方で「聖母マリア」たることを強制し続けたその妻が、事もあろうに「聖母」どころか、ワイルドの妖筆で旧約聖書の世界から蘇った悪女「サロメ」さながらの相貌をもって彼の前に立ちはだかったのである。
社会的・肉体的・精神的に病み傷つき、厭世的な思索に沈潜しながらも、究極の傑作「大地の歌」と「第9交響曲」において、残された僅かな生を讃美し、激しい生への執着と諦念のどうしようもないくらい切なくも烈しい、絶望的な葛藤を切々と歌い上げた彼でさえ、「聖母マリア」としての妻アルマなくしては、創造者たる以前に人としてのアイデンティティーさえ保ち得ない程であることをいやというほど思い知らされたのであった。彼はもう一度妻を、そして自分自身をその手に奪い返す為に、残された彼の生命の全てを懸けて最後の闘いに身を投じたのである。その壮絶な闘いの有様こそは、未完に終わった彼の第10交響曲の草稿に血と涙とで刻み付けられている。
世界音楽の頂点である、前作第9交響曲の終楽章を受け継ぎ更に純化させた感さえある第1楽章、グロテスクで斬新なリズムが支配する第2楽章、溜息と不安の交錯する第3楽章(煉獄の名で呼ばれる事もしばしば)、狂気そのものの痛ましくも恐るべき第四楽章を経て、生涯の最後(第5楽章)に彼がどんな境地に達したのか… 圧倒的な内容の深さを誇る全5楽章を通した本曲の姿を知りたい方は、来年1月4日昼、名古屋の愛知県芸術劇場コンサートホールで、オストメールフィルにより行われるマーラー第10交響曲全曲版の演奏会(東京以外では日本初演、アマチュアとして日本で2回目。1回目については後述。何と名古屋の演奏会であるのに、花火指揮者の金子先生が長大なオリジナル論文を寄稿され、また花火総帥のO嶋師も演奏にご参加されるという禍々しい噂が流れて(流して?)いる。何か恐ろしい事が起きるのは間違いなかろう)に必ずお越し願いたい(思いっきり宣伝してしまいました。プログラム原稿依頼が締切直前だったことに免じて許してね)。
閑話休題、勿論マーラーは第10交響曲を巨大なスケールの全5楽章という形でとらえていたのは間違いないが、さりとて半分未満の草稿しかの残されていない他の楽章に比べ、ほぼ9割以上が完成していた第1楽章アダージオはなんと言っても全楽章でもぬきんでた完成度をもっているだけでなく、彼の全作品の中でも指折りの優れた内容をもった傑作中の傑作であり、正にマーラーの真髄を考えさせるだけの何かをもっているのは疑いを容れないところである。
本日はその第1楽章アダージオの、通常のオーケストラ譜によるものではなく、ドイツの俊英ハンス・シュタートルマイアーの編曲による弦楽十五重奏版(ヴァイオリン8、ヴィオラ3、チェロ3、コントラバス1という編成)という珍しいヴァージョンによる演奏である。ひょっとすると昨年の花火本公演におけるコルンゴルト弦楽六重奏曲の弦楽合奏版日本初演に続き、今回もメインの金子版のベートーヴェンの弦楽四重奏曲とともに日本初演という栄誉を担う舞台となるかもしれない。
更にいえば、本日の舞台で熱演を繰り広げる人々の半分近くは、なんと5年前同じく金子先生の棒のもと、マーラー第10交響曲全曲版のアマチュア日本初演の舞台に参加しているのである(あれは実にホットな経験でありました)。プロアマを問わず、彼らのマーラー第10への理解と共感は衆に抜きん出たものがある。その彼らが全曲の構成を見据えた上で挑む本日の公演では、単なる珍しい弦楽十五重奏版の演奏であることを遥かに超えた、より深く、より苛烈な音楽的追求が期待できよう。
マエストロに少し話を伺った限りでは、弦楽合奏に編曲された段階の譜面の音程、とくに和音の箇所は果たして本当にそれが正しいのか、大いに迷わされたそうである。そもそも調性が殆ど崩壊しきったところに生れ落ちた音楽であるので、シュタートルマイアーの編曲によって多少刈り込まれた音符がある程度調性をキープするためのものとして残されたのか、不安定な和音を活かすために残されたのか、試行錯誤の連続だったとの事である。本日の公演ではその「煉獄」を潜り抜けた金子先生と花火の猛者達がどんな絶唱を聴かせてくれるのか、本解説を書いている今でさえ、烈しい期待と興奮を禁じ得ないのである。
(今回も客席参加?の高橋ピロシ)