ケルブあるいはケルビム

ベートーベン(a.k.a.ベートーヴェン)の第九フィナーレで歌われるシラーの詩には、"und der Cherub steht vor Gott!"と天使ケルブ(ケルビム)が登場します。現代におけるケルビムのイメージが《キューピット》に近いために、ここは「少年天使が現れる」と訳されたりもしますが、本来ケルブとは強面の天使。詩の意味を理解する助けとして、ケルブが文献などでどんな風に描かれているかを確認します。

(この文章は、もともと「第九の歌詞と音楽」の一部として書いた注釈を独立させたものです)

古典文献のケルブ

旧約聖書のケルブ

ケルブは偽ディオニュシオスによる天使の九階級ではセラフ(セラフィム)に続く第二階級(第九階級がエンジェル)。その姿は、旧約聖書『エゼキエル書』に描かれていように、半人半獣の恐ろしいもの。

それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼をつけている。(…)その顔の形は、右側は四つとも人の顔と獅子の顔、左側は四つとも牛の顔、四つともわしの顔である。(…)生き物の間には炭火が燃えているように見え、たいまつのように、それは生き物の間を往き来し、火の光は光輝き、火から稲妻が出る。(1:6-13

また、『創世記』では「神は人を追い払い、エデンの園の東にケルビムと自転する剣の炎とをおき、生命の樹への道を看守らせることになった」(3:24)と記されている。

同様の強壮な守護者は、中近東一帯でさまざまな形で伝承されてきている。獣の体と人間の顔と翼を持つ、アッシリア神殿の守護者も同じ系統だ。その起源である聖獣「カリブ」は古代シュメールの岩壁画にも描かれているそうで、ここでは「カ」は叫ぶ頭、「リ」は翼を持つものと保護、「ブ」は鋭い槍もしくは剣を表しているという。「ケルブ」はヘブライ語で「知識」であるため、智天使とも呼ばれるが、ケルビムが天神様であるというわけではなく、天上の国は外界と「知識の門」によって隔てられることを意味するものらしい(アッカド語で「寛大な」を意味するKarûbやアッシリア語の「近くにいる」を意味するkarâbuにさかのぼるという説明もある)。

『エゼキエル書』の「こうしてケルビムはその翼を上げた。そしてイスラエルの神の栄光は彼らの上の方にあった」(11:22)という辺りが、神を祝福するという文脈で引用されることもある。しかしここは、偶像崇拝などをしたエルサレムを神が破壊して立ち去るという場面であり、幸せ一杯の祝福ではなくかなり厳しいものだ。また『出エジプト記』で契約の箱をつくる場面では「また金で二つのケルビムをつくり、打出し細工で、蔽いの板の両端につくらねばならない。(…)ケルビムは上の方へ翼をひろげ、その翼で蔽いの板をおおいかくし、その顔を互いに向けあい、またケルビムの顔は蔽いの板の方に向けられていなければならない」(25:18-22)という記述がある。ケルブは、神を讃えつつ見張り護る、という両義的な役割を持つのだ。

同時代の文学とケルブ

シラーの「ケルブ」を考える手がかりとしては、同時代の文学作品を見る手もある。例えばゲーテの『マリエンバート悲歌』の一節だ:

Der Kuß, der letzte, grausam süß, zerschneidend
Ein herrliches Geflecht verschlungner Minnen.
Nun eilt, nun stockt der Fuß, die Schwelle meidend,
Als trieb' ein Cherub flammend ihn von hinnen;
Das Auge starrt auf düstrem Pfad verdrossen,
Es blickt zurück, die Pforte steht verschlossen.
口づけ、最後の口づけは身ぶるうばかりに甘やかに、
絡みあう愛のかがやかな網を切り裂いた。
足はいませわしくもまた行きしぶり、戸口を避ける、
智天使ケルブに炎もて追われるごとく。
眼はうつうつと小径を見据え、
ふりかえれば、門は閉ざされてある。

ゲーテの示す“ケルブが「門を守る」”というイメージは、シラーも共有していたと考えるのが合理的だろう。

天使については文献によって記述がまちまちだったり、相互に矛盾があったりして、掘り下げていくとかなりややこしい。『失楽園』などを読むと、天使の使い分けは結構アバウトだったりもする。しかし、古典的な文献に登場するケルブのイメージは、ほぼ一貫して“強面”といってよさそうだ。これらを踏まえると、少なくとも第九でのder Cherub steht vor Gottは、ケルブが神の前にいるため、喜びだけでなく畏怖の念を感じて簡単には近づけない、と見るべきだと思う(ゲーテの場合はdie Pforte steht verschlossenだ)。下降音階で足場が崩れるかどうかはともかく、ベートーベンの音楽が示す強調、転調などは、こうした視点に立って初めて納得がいく。それに、ここでめでたしめでたしになってしまっては、このあと脳天気なトルコ風マーチから先に音楽を展開していく意味が無くなるんじゃないかな。

乙女=ケルビム?

第九の歌詞のこの部分についてまともに論じたものはほとんど無いが、唯一、丸山桂介だけは『プロメテウスのシンフォニー』において、旧約聖書や詩論などを踏まえながら、第九のテキストを検討している。彼は楽園=歓喜の地=エデン=至聖所ととらえ、それに関連して乙女=翼の主=ケルビムという論を展開する。そして、「『炎に焼かれて汝の至聖所に入る』ということはすなわち、エデンの園の東に置かれた『廻る炎の剣』を越えて楽園=至聖所に至ることに他ならない」(p.282)と結論づけている。

興味深い説であり、全体的には「『喜びの地』へと至ること」(p.282)が基本的なライトモティーフであったことには違いない。が、(Heiligtum=聖所をAllerheiligste=至聖所=ケルブが守るところとして訳すという微妙な操作はともかく)翼があるから乙女=ケルビムというのはちょっと強引で、「こうして人間は『楽園』を追われ、そこへと帰りゆく道を断たれたことになるが」としつつ「しかしそれ故に、やがてケルビムに導かれて『楽園』に至ることになる」というのは根拠がなく無理なんじゃないか。

ロマン・ロランの読解

ベートーベンのロマンティックなイメージをつくったとしてあまり評判のよろしくないロマン・ロランだが、その『ベートーヴェン第九交響曲』での歌詞の読解は、耳を傾ける価値がある。

…ことばは全体的な酔いごこちのなかでおぼろになる。ただ、力づよいクレッシェンドのはてに最後のことばだけが、太陽の接近のごとき「聖なるもの」の接近で輝く。巨大な「大天使ケルビム」の姿である。《steht》という語をきわだたせてこれらの語句を二回反復する合唱は、大天使ケルビムのように、列柱に似て立つ。そして充溢したフォルティッシモの力のなかで三たび反復される《Gott》という語のうえに、弦のユニソンの走句が、彼らをひたす光耀にひれ伏す民衆を表現するかのように、四オクターヴの斜面でなだれ伏す。…

同書の注釈においてロランは、シラーがケルビムについて、原始言語においては「力」の象徴たる「牡牛の名」である、と述べていることを説明している。そして、「人類は礼拝の心がまえで入り口にとどまっている」としたうえで、ここでいったん幕が下りることを示唆している。

“天使”的なケルビム

現代では、ケルビムというと何となくキューピットのようなイメージを思い浮かべる人も多いだろう。これが第九の歌詞の解釈をややこしくする(「少年天使が立っている」なんてな訳もあったりする)一因だが、いわゆる“天使”的なケルビムのルーツは意外に歴史が古いかも知れない。

東方正教会の聖体礼儀で、聖体の入堂に際して《我らは、この神秘のうちにケルビムを示し、生命を与える三位一体のために三倍聖なる賛美歌を歌い…》と歌われる「ケルビムの賛美歌」(ケルビコン)は、17世紀以前(東ローマ帝国時代?)から存在したようだ。モーツァルトをはじめとして多くの作曲家が曲をつけている「テ・デウム」には次のような部分がある。

Tibi Cherubim et Seraphim
incessabili voce proclamant:
ケルビムも、セラフィムも
絶え間なく声高らかに御身がほぎ歌うたいまつる。
(訳は公教会祈祷文による)

ヘンデルのオラトリオ「ユダス・マカベウス」には次のようなレチタティーヴォがある。

I feel, I feel the deity within,
Who, the bright cherubim between,
His radiant glory erst display'd;

これらのように、旧約聖書の描写は脇に置いて(あるいは別の流れで)、いわゆる“天使”としてケルビムが歌われることもあったようだ。

実はこうしたケルビムに連なる曲はいろいろある。「フィガロの結婚」のケルビーノはケルビムから来た名前だが、このイメージは炎の剣を持つ半人半獣とはほど遠い。もっと最近では、チャイコフスキーが1884年に「3つのケルビム(ヘルビム)の歌」という宗教曲を作り、ラフマニノフは1910年の「聖ヨハネス・クリュソストムスの典礼」の7曲目に「ケルビム賛歌」を置いた(これは前出のケルビコンと同じ位置づけのはず)。さらに、マスネの1903年の喜歌劇にChérubinというのがある。これは「フィガロ」のケルビーノのその後を描いたもので、「天使ケルビム」と訳されるが、現代のイメージに近いだろう。

美術史を見ても、天使の表現はさまざまだ(旧約聖書についてすら、ケルブが天使一般を示しているという見解もある)。ケルブということばがどんな意味で使われているかは、文脈や背景などを含めて考察しないと簡単には決められないこともある。シラー(ベートーベン)の場合は、ゲーテと同じく、旧約聖書を踏まえてケルブを使っていると思うのだが。

参考資料