ノリントン、ハイドンのパリ交響曲を語る

ロジャー・ノリントンは2000年のザルツブルク音楽祭で、カメラータ・ザルツブルクとハイドンのパリ交響曲6曲を演奏しました。この様子を収録した番組に、彼がハイドンの交響曲を解説する場面が含まれていたので、その部分を翻訳・紹介します。

1. ハイドン交響曲の様式と特徴

ハイドンは、世界で最も多産な優れた交響曲の作曲家でした。18世紀の最後の四半世紀において、彼は並ぶもののない交響曲の巨匠として、ヨーロッパ中に知られていました。いろんな意味で、彼は交響曲の「父」でした。

確かに、彼はパリの最高の演奏会企画者から新しい6つの交響曲の作曲を、多額の作曲料で委嘱されました。しかし1784年に、彼が長年仕えていたエステルハーザにおいて委嘱を受けたとき、どんな交響曲が考えられたのでしょうか。彼はいかにして、自分の交響曲が遠いパリの会ったこともない人々を喜ばせられると確信できたのでしょうか。

そのころまでにハイドンは、新鮮でウィットに溢れ規模の大きな作曲スタイルを確立しており、それは誰をも魅了すると自信があったのでしょう。交響曲の4つの標準的楽章は、それぞれ異なった個性を持つようになりました。第1楽章は動き(action)、第2楽章は歌(song)、第3楽章は踊り(dance)、第4楽章は笑劇(farce)。これらはコミック・オペラとごく近い関係にあり、実際、ハイドンの交響曲は密接にこのジャンルと関連しているのです。

第1楽章では、彼は大胆で劇的な身振りを用います。それはまさにオペラの序曲から産まれたものなので、雄大さ、暖かさ、ペース、そして動きが盛り込まれました。中間部では爆発的な要素が現れますが、また柔らかなものとの対比が驚きを誘います。そして、たぶん、ちょいと学者気取りのパスティーシュ、たとえばフーガなど、を経て、曲の冒頭に賑々しく戻ってくるのです。

第2楽章は、感動的でロマンティックな歌のような旋律で、美しさの方に向かいます。この演奏会で取り上げる2つの交響曲は、いずれも歌のように響きます。それらはハイドンによる仕掛けをたっぷり施され、何度も何度も変化し、戯れて、おかしさと感じやすさの両方を表現しているのです。

さて私たちはドラマと歌を手に入れました。ほかに誰もが楽しむものは? もちろん、ダンスです。1780年代にはあらゆる人が踊りました。国王にとってであれ庶民にとってであれ、ダンスは18世紀のテレビだったと言ってよいでしょう。ですから、第3楽章は常にメヌエットが使われました。パリの人々にとってダンスの大元であり、ごく自然なものだったのです。メヌエットは、トリオと呼ばれる小さな中間部を持ちますが、それはしばしば2〜3人だけで演奏されたため、そう名付けられています。

終楽章は常に交響曲の集大成で、1楽章と同様速い音楽ですが、同時にハイドンは誰もが楽しめるよう、喜劇や卑俗な要素すら取り込んだりしました。ハイドンの速い楽章はとりわけ優れており、それはちょうどコミック・オペラのフィナーレのように響きました。たとえばフィガロの結婚のように。それらは人々が帰り道にメロディを口笛で吹けるようにつくられ、もちろんダンスのリズムに満ち、そして途中のところどころには、おどけや驚きが用意されているのです。

これが交響曲の構成です。ではそのほかに人々を喜ばせるための仕掛けは? 例えば、遅い音楽はありません。それは退屈なばかりでなく、踊ることもできないのです。民謡のイディオムもよく用いられました。これによって音楽は、非常に洗練されているにもかかわらず、農場から聞こえるような親しみやすいものともなるのです。最後に、スタイルを変化させ、混合し、聴衆を混乱させる、大胆でほとんど乱暴とも言えるほどのウィット。

これらが、ハイドンの新しく、人気を博した、いまや国際的なスタイルの要素です。個性と人柄が現れ、エキサイティングで魅力的で、人間味に溢れて、などなど。彼の音楽はパリで、そして彼の行くところどこででも愛されました。素晴らしいことに、うまく演奏されれば、その曲は今日においても全く同じように我々に語りかけてくるのです。

2. ハイドン当時の演奏技法

ウィーンやロンドン、パリのために作曲することで、ハイドンは我々が知っている交響曲を実質的に「発明」しました。しかしもちろん、それはバロック音楽の技法を全面的に継承しています。それなしに古典派のスタイルは存在しなかったでしょう。中でも最も重要なのは、バロックの音楽家たちがそれ以前の伝統から受け継いだ演奏方法です。

エステルハーザやパリ、ロンドンでの演奏会は、通常1回だけの練習しかありませんでした。もちろん、楽譜は比較的容易であり、オーケストラはハイドンの新作という1種類の曲だけを演奏すればよく、シューベルトやシュトックハウゼンやベートーベンを同時に取り上げる必要はありませんでした。しかしたとえそうだとしても、いったいどうやってそんなことが可能だったのでしょうか?

現代のオーケストラや指揮者は、音(sound)にこだわる傾向があります。しかし18世紀の音楽家たちは、音よりも、形、すなわちフレージングにこだわりました。彼らは音楽が歌であること、話し言葉のような方向性と多様性で歌わせることを欲しました。彼らはそれを、「音楽の言語(The language of music)」と呼びました。

まず最初に彼らは、「良い」音符と「悪い」音符、言い換えれば、言葉として、他のものより強調すべき音符はどれかということを教わりました。小節の中で常に強い音符はどれで弱い音符はどれか。上行音階や繰り返しではだんだん大きく長く、そしてスラーやフレーズの最後、下降音階、休符ではソフトに。ある小節全体が他の小節に比べてより重要なこともあるが、しかし上拍は軽く、下拍はアクセントをつけること。

聴衆は本能的にフレーズ、すなわち音楽のパラグラフの文を知っており、その意味を明確に理解しました。彼らはさらに、踊れる音楽かどうかも見分けました。そして、おわかりだと思いますが、音楽をダンスにするのはリズムではなく、フレージングなのです。テンポについてあれこれ言うことは誰にでもできます。しかし、踊り手がごく自然な勢いで前に進むようにすることはできますか? ウィーンやパリの歌手や音楽家は、誰でもダンスのために演奏しました。優れたオーケストラの演奏家は全て、音楽が説得力を持つようにフレーズを付ける方法を心得ていました。

そういうわけで、良い演奏団体ならば、これらの知識によって、最小限のリハーサルしか要さなかったのです。同じスキルを今日用いることで、この素晴らしい音楽を演奏し、聞くことから最大の楽しみを引き出すことができます。これが、私たちのやろうとしていることです。

3. 革命的な音楽

いまだに、ハイドンやモーツァルトには、エレガントで古典的で、人形のようでカツラをかぶって着飾った、というイメージがあります。もちろん、それは正しくありません。モーツァルトでさえ、宮廷で名声を得たにもかかわらず、エレガントな一方大胆なところもありました。しかしハイドンを上品な陶器の人形のように考えるのは、実像とは違います。彼は素朴な田舎の職人の息子でした。その音楽は形式によって特徴づけられてはいますが、内容や狙いは、ほとんど爆発的で革命的だったのです。

彼の形式は、もちろん古典派のものです。古典派の形式とは、均整がとれ、きちんと調和し、啓蒙的なものです。しかし、古典派の芸術は啓蒙的なものばかりではありません。それはまぎれもなくフランス革命の芸術でもあります。ダビッドやドラクロワの、そして悪夢的なフュースリもそうです。ハイドンは、悪夢的な音楽はほとんど書きませんでした(それはベートーベンの役割です)。しかし、彼がバロック音楽を「民主化」したことは、それ自体まさに革命的なのです。

モーツァルトのフィガロのように、ハイドンの交響曲は民主主義的に「主張」します。既存の社会を笑い飛ばし、しかもそれを、誰もが笑えるような朗らかな形で行ったのです。彼の音楽のリズムは、貴族的なメヌエット、サラバンド、クーラントばかりでなく、中流階級のコントルダンスや、庶民階級のレントラーやジーグでもあります。

ハイドンが、これらの6つの超近代的な交響曲を、一種の時限爆弾としてアンシャン・レジームのパリに送りつけたと考えてみるのは刺激的です。王妃マリー・アントワネットはそれらをお気に召したようでした。彼女は特に85番が気に入ったので、それは彼女にちなんで「王妃」と名付けられました。しかし2年後、彼女は投獄され、そして6年後には処刑台の露と消えてしまいます。ハイドンのこの危険なまでの民主的ウィットは、おそらく古典派スタイルの性格を再定義するものでしょう。そしてこれらの交響曲において、私たちはなぜ誰もが彼の素晴らしい音楽の対話に魅了されたかを聞き取ることができるのです。

(2000, ロジャー・ノリントン談)