
【第3回:96.2.22】
みなさん、こんにちは。
あいかわらず、寒い日が続きますが、いかがお過ごしですか?
さて今回は、少し「ギョーカイ」のお話をさせていただきたいと思います。
「音楽評論って、よくわからん」「ヨイショの記事が多い」という意見をよく耳にします。うーん。確かにそうですね。
でも、同じことが音楽だけでなく、他のいろいろなモノについても言えるのではないでしょうか? 車や化粧品、オーディオなんかにしても、そうではないですか?では、どうしてそういうことになってしまうのか? それは、世の中に流通している記事の大半が、コマーシャリズムと切っても切れない、深ーいカンケイにあるためだと考えられます。
演奏会やCDも、今や「商品」として市場を流通しています。
そして、演奏会やCDを「販売」しているレコード会社や音楽事務所の人達にとって、雑誌や新聞の批評は重要な広告媒体なのです。…となると、「商品」を販売する側としては、当然、自社の「商品」が少しでも多く売れるような「宣伝効果」のある文章を書いてくれる「評論家」を探して、そういう人に仕事を依頼しようとするわけです。
これはまさに「資本主義経済」の理に適った流れと言えましょう。
特にCDや演奏会は基本的に「試す」ことができない「商品」ですから、販売拡大のためには、前評判とか世論、イメージといったものが非常に大切になってきます。そういう「商品特性」が災い(?!)して、「評論家」はますます、コピーライター的な役割を果たさざるを得なくなってしまう…という仕掛けになっているんですね。
「でも、音楽雑誌や新聞に掲載される評論なら、出版社や新聞社が原稿料を支払うんだから、関係ないだろう」と思われる方がいらっしゃるかもしれません。
でも、音楽雑誌の広告を見てください。どこがお金をたくさん出しているか、おわかりでしょう。それに、関係者は、自社に関連のある記事をよく読んでいますからね。その場はともかくも、先が続かなくなってしまう場合もあるのです。
実際、あるマメージメントに所属するアーティストの演奏会を、某音楽誌で酷評したら、そのマメージメントから仕事がこなくなったという人を私は知っています。
コワイですねぇ。まあ、マメージメント側にしてみれば、「ふん、評論家なんか、いくらだっているんだから、何も、うちのアーティストの悪口を書く奴に、カネを払う必要はないわいっ!!」といったところなんでしょう。
一方、どんな評論家にとっても、仕事の有無は、死活問題ですから、お腹の中で思っていることとは、若干ニュアンスが異なっても、「クライアント」が満足してくれる記事を書こうとしてしまう…こういう傾向に流れがちであることは否めません。
そして実際に、そういうソツのない記事を書ける人こそが、ギョーカイでは重宝がられるわけです。
よく「日本にはまともな音楽評論家がいない」などの声を耳にしますが、その裏には、ただそういう人たちが招待券をもらって演奏会に行っているから「悪口」が書けないというだけではなく、もうちょっと深い所に根差した問題があるのです。つまり「評論」がカンペキにコマーシャリズムにのっかってしまったが故に、本音を言っていては“仕事”として成立しないという状況がすっかり定着化している……そこに根本的な問題があるのではないかと私は思うのですが。
それからもう1つには、インタビューなどを通して、アーティストと面識ができてしまった場合などは、ちょっと「悪口」は書きにくいという、人情絡みのケースもあります。これは、皆さんも理解できるかと思います。
仕事などでお世話になった人に対して、オフィシャルに悪口を言うことはなかなかできないですよね。しかも、それが相手の「職業生命」にかかわることなら、なおのことです。「まあ、相手の顔も立てて、お茶を濁しておくか」と思うのが、心ある人の“道”ではないでしょうか?
こうした現状は、由々しきモンダイをたくさんはらんでいるわけですが、コトの規模が大きいだけに、簡単には解決の糸口は見つけられません。
ですから、享受する側が賢くなって、「評論」を批評できる“眼”を持つことが非常に重要になってくると思うのです。
では、具体的にどうしたらよいか。その方策については、次回、お話させていただこうと思いますので、お楽しみに!!
ご意見や反論などがありましたら、ぜひお聞かせください。