渡辺裕の『西洋音楽演奏史論序説』(2001,春秋社,ISBN:4-393-93152-1)を読む。いわゆる「原典版」指向が強まる中、作品の本質とは楽譜だけではなくて、各時代の演奏に現れるものも含めて考えなければならないという視点で、ベートーヴェンのピアノソナタの演奏史を中心に論じたもの(資料、譜例も合わせると約550頁の大著)。

単なる概論ではなく、最新の論文から18世紀の文献にまで目を配るのはもちろんのこと、実際の録音を大量に集め、因子分析までおこなって実証しようという意欲的な力作で、その議論に耳を傾けてみる価値はある。19世紀の演奏が単なるまがい物ではなく、その時代における「正統」であったという主張ももっともだ。原典版(本書でいうもっと適切な用語なら「批判校訂版」)を重視しすぎて原理主義のようになる傾向がもしあるのだとすれば(どこにあるのかが不明だが)、それに対する反論もそのとおり。

ただし、原典重視の流れを「勝利者史観」とか「イデオロギー」ということばで括って退けるかのような姿勢は気になる(著者もその点は気にして時おり補足しているが、全体の論調は否定的)。音楽学という学問分野では楽譜至上主義のような傾向もあるのかもしれないが、ノリントンなどのHIPは自らが「正統」であると主張したこともなければ、19世紀の演奏が「誤り」と言っているわけでもない。また、ショパンのような即興演奏に近い形で作曲するケースを例に挙げて、“楽譜は作曲家のメモであり、演奏が楽譜に厳密に従うことは求められていなかった”ことを証明されても、それがベートーヴェンにもそのまま当てはまるとは考えがたいな。それに、ピアノのようなソロ楽器とオーケストラでは、楽譜の位置づけもかなり違うはずだ。

「原典」の楽譜以外がだめということではなく、少なくとも「作曲者が最初に想定していた構想を教えてくれる資料」は、演奏家としても、また聴衆のひとりとしてもきちんと知っておきたいと思う。その上で、現代という時代の持つ空気を反映した音づくりをするのは自由だし、また当然、どんな音楽家でもそうするはず。生まれて初めて飲んだコーヒーに砂糖がたっぷり入っていたから、ずーっとコーヒーとは甘ったるい飲み物と思いこんでいるのでは、やはり不幸だと思うのだ。

()